霧のむこう、川の手前

霧のむこう、川の手前

「僕は」と、或いは「あなたは」と、僕達は気軽に口にする。

その時に、「僕」とはどういう人であるだろうか。「あなた」とは。
つまり、「僕」とはどういう存在であるだろうか。そして、「あなた」とは。
そもそも、「僕」とは、「あなた」とは、何処から何処までをいうのか。

世界からあなたを切り分けている境界面は、何処に在るのか。
或いは、世界から僕を。
もしもそれを輪郭というのならば、人の輪郭とは何か。
皮膚が然うであるのか。

人と人の触れ合いというものが在るのなら、その時に僕とあなたを切り分ける境界面は何処なのか。
皮膚であるのか。
もし然うであるならば、僕があなたに発する言葉は、あなたが僕にかける言葉は、何処で僕から、あなたから、切り離されるのか。
あなたの発する体温は、何処から、あなたではないものになるのか。

皮膚が成す所以外の、あなたがもつもの、あなたに内在するもの —例えば心だとか、そういうもの— が、つまりそのmeme(ミーム)が、
あなたが動いたその軌跡に沿って零れ落ち、世界を揺らすその時に、其処にはあなたは居ないといえるのか。
僕が、あなたが、いつか鼓動を止める時に、その後に、僕達の皮膚の内側には「僕」や「あなた」は、居るといえるのか。

あなたという存在を、僕という存在を、その他の世界から切り分ける、個としての存在を規定する事など出来るのか。
線としての、或いは面としての明確な境界を持たないとするならば、僕という揺らぎを、あなたという揺らぎを、その偏在を。
これと定めて掬い出す術などあるだろうか。

あなたが「あなた」であることの輪郭等、杳として定められず、僕が「僕」である事の輪郭もまた同じ様に定められず、確たる個としての存在の証等無くても、
それでも「あなたが僕の前に居る」のだと、時にはそれを「わたしたち」と呼び得るのだと、そう信じるのであれば、そのふたつの存在は、
memeの媒介としてリンクを張る、緩やかなノード、不明瞭で曖昧に隔てられて居ながら、此岸と彼岸程決定的には分たれていないものだと、そう信じる事になる。

そして、然うであるならばまた、「わたしたちは孤独ではないのだ」と信じる事もできるのだ。


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